「家庭の医学」 レベッカ・ブラウン

残念ながら、単行本も文庫本も絶版扱い。増刷に期待したい一冊!

「大切な人の病と死を扱ったという理由からではなく、それらの扱いの客観性ゆえに、本書はまことに聖なるものとなったのである。」(川上弘美)

「いずれにせよ、肉親の病気、入院、治療・介護といった問題は、現代で生きる我々の多くにとって相当に大きな問題であり、モブ・ノリオの『介護入門』(文藝春秋)はいささか過激な例かもしれないが、いずれにせよようやく小説でも重要な主題になりつつあるように思える。二〇〇一年に刊行されたこの本は、そうした「介護文学」の先駆的な一冊ということになるかもしれない。」(訳者あとがき)

「ある夜」 ユン・ソンヒ

「印象的なのは、初老の女性がピンク色の盗んだキックボードで転倒するというユニークな設定だが、ここで浮き彫りになっているのは「女性」の生きづらさ、貧困や暴力、不慮の災難、夫婦間の溝、老いへの不安といった切実な問題である。こうした重いテーマを内包する物語でありながらもテンポよく読み進められるのは、著者特有の淡々とした文体やユーモアのある視点、エピソードの配置の妙によるものだろう。金承鈺文学賞の審査委員会はこの作品を「端正で美しい象形文字」にたとえ、「長い時間の感情がその中に凝縮されているが、心を尽くしてじっくりとその文字を手繰りよせる準備ができている人にだけ、全てが伝わる」小説だと評している。」(訳者解説)

「誠実な嘘」 マイケル・ロボサム

▶最初いまいちピンとこなかったのだが、第一部の途中から俄然面白くなってきた。
▶次回作「天使と嘘」での主要なメンバーであるサイラス・ヘイヴン登場!

「あたしたちが送っている人生はなんて奇妙なことか。幸せを探しているはずなのに、結局は生き延びるだけでせいいっぱいだ。存在すること。期待を持ちすぎないようにしようとするけれど、実際は無益に過ごしたり、時間を無駄にしたり、送れたかもしれない人生のことを考えたりしている。そしてじきに、もっと金持ちだったら、もっときれいだったら、もっと若かったら、もっと運がよかったら、もう一度初めからやり直すことができたらと考える罪深くて、金に飢えていて、人を裏切り、疲れ果てて嫉妬深い人間たちの一員になっていくのだ。」(744頁)

『フォーリング 50年間の想い出』 シネ・リーブル梅田

◆監督、脚本、音楽を担当。ヴィゴ・モーテンセン、才能の塊やね!
◆ランス・ヘンリクセンのオスカー級の演技に吃驚仰天!
◆グウェン役のハンナ・グロスという女優さん、なかなかエエです。
◆お医者さん役でのクローネンバーグ登場に笑ってしまった。
◆とはいえ、ヴィゴの主演作ではクローネンバーグ監督作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』と『イースタン・プロミス』を抜きにしては語れないのだけれど……

Wikipedia によれば、「本作は批評家から好意的に評価されている。映画批評集積サイトの Rotten Tomatoes には84件のレビューがあり、批評家支持率は70%、平均点は10点満点で6.2点となっている。サイト側による批評家の見解の要約は「ストーリーはジョンとウィリスの関係と同じくらい複雑かつ混線している。『フォーリング 50年間の想い出』は似たような展開が繰り返され、観客はうんざりさせられるかもしれない。しかし、入魂の一作であることは間違いない。」とのことですが、個人的には「ストーリーはジョンとウィリスの関係と同じくらい複雑かつ混線している。」というほど解りにくい描写はほぼなかったし、「似たような展開が繰り返され、観客はうんざりさせられる」こともなかった、というのが正直なところ。

『tick, tick… BOOM!:チック、チック…ブーン!』 シネ・リーブル梅田

▶若くして夭折したジョナサン・ラーソンの伝記もの。
▶『わたしを離さないで』の慟哭のシーンがいまだ頭から離れないアンドリュー・ガーフィールド主演。
▶アンドリュー・ガーフィールドを観ていると、若いころのトム・ハンクスとダブりますね……
▶恋人役のアレクサンドラ・シップがなかなかいいねぇ……
▶幼馴染みのマイケルの告白にグッと来ました……
▶楽曲が個人的にはピンと来なくて、その点が一番残念でした。

アレクサンドラ・シップ

本日の肴〈セイコガニ〉

本日の肴は〈ズワイガニの雌〉。雄のように大きくはならないので、蟹の身というよりも内子とみそがポイント!大根おろしに味の素、酢、醤油をかけていただきます。

以下、〈ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑〉より引用。
「 筋肉もおいしいが、雌ガニの味は内子にある。買い求めるとき、あまりおいしくない外子があまり大きくないことを確かめて買う。内子のうまさは文字にすべくもない。官能的な味である。」

本日の肴〈赤カレイの煮付け〉

本日の肴は〈赤カレイの煮付け〉。

〈赤カレイ〉は水で洗ってヌメリを取り、皮目に切目を入れる。
フライパンに
▶水 150cc
▶醤油 大さじ1+1/2
▶料理酒 大さじ1
▶味醂 大さじ1
▶砂糖 大さじ1
を入れて、落し蓋をして中火で7〜8分。
落し蓋をとって、煮汁が半量ぐらいになるまで煮詰めれば完成。
大変美味しゅういただきました。

以下、〈ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑〉より引用。
「冬から春にかけて入荷量が増える。真子・白子を楽しむならこの時季だ。関東では子持ちを喜ぶ。
筋肉自体の味わいは夏から秋だと思う。
鱗は細かく取りやすい。皮は厚みがあり強いが熱を通すと柔らかく破れやすい。骨はあまり硬くない。
透明感のある白身で、熱を通しても硬く締まらない。まったくクセのない上質の白身。皮などにゼラチン質がある。」

中野剛志さんに「MMTっておかしくないですか?」と聞いてみた 第11回 ➡ なぜ、「経済政策」はいつも間違えてしまうのか?

アメリカの覇権パワーが凋落し、世界経済が縮小へと向かうなか、日本がたしかな国家戦略を立案するためには、「経済力と政治力・軍事力との間の密接不可分な関係を解明する社会科学」の確立が欠かせない……。その問題意識のもと中野剛志氏は、『富国と強兵 地政経済学序説』で地政経済学を提唱した。ただ、現在の主流派経済学では、政治学や地政学、歴史学などとの接続が不可能だという。何が問題なのか? 語っていただいた。(構成:ダイヤモンド社 田中泰)

◆「モノをつくったら、必ず誰かが買う」という世界◆

――前回、中野さんは、現在の主流派経済学は政治学や地政学など他の学問と接続することができないとおっしゃいました。主流派経済学が「現実世界」とはかけ離れた精緻な理論体系を、つくり上げてきたからだ、と。どういうことか、具体的に教えてください。

中野 わかりました。では、貨幣の話から始めましょう。前にMMTについて説明したときに、主流派経済学が立脚している「商品貨幣論」の話をしましたが、覚えていますか? 

――はい。「貨幣の価値は、貴金属のような有価物に裏付けられている」という学説ですよね?

中野 そうです。物々交換は面倒くさいので、金や銀などのそれ自体で価値のあるモノを選んで、それを「交換の手段」としたのが貨幣の起源だというのが、主流派経済学の主張なわけです。要するに、主流派経済学は、市場経済を物々交換と同等にみなしているのであり、その理論のなかには、現実の世界で流通している信用貨幣が存在していないということです。

 経済学者のダドリー・ディラードは、この主流派経済学の想定を「物々交換幻想」と呼んで、その系譜をたどっています。

 そもそもアダム・スミスの経済理論は、それ以前に流布していた重商主義を批判するかたちで登場しました。重商主義者たちは国富と貴金属の量を同一視しており、スミスはその誤りをただすべく『国富論』を書いたのですが、その際、重商主義に過剰に反応して、貨幣自体を理論の隅に追いやってしまったのではないか、とディラードは指摘しています。そして、スミスは、重商主義という「産湯」とともに貨幣という「赤子」を流してしまったのではないか。そうスミスを批判するディラードは、これを「アダムの罪」と呼んでいるんです。

――へぇ、そうなんですね。

中野 そして、この「アダムの罪」を引き継いで「ドグマ」にまで仕立て上げたのが、フランスの古典派経済学者であるジャン・バティスト・セイであったとディラードは言います。

 セイは、「生産物は常に生産物と交換される」と主張しました。この命題はのちに「供給はそれ自らの需要を生み出す」と言い換えられ、「セイの法則」として知られています。

――え? 「供給はそれ自らの需要を生み出す」って、どういうことですか? 新刊書籍を100万部印刷して流通させれば、100万部売れるということですか? そんな世界があるなら、今すぐ移り住みたいです。

中野 そう思いますよね? もちろん、現実の世界では、供給は常に需要を生み出すなどということはあり得ません。モノを作って売り出したら、必ず誰かが買うなどということがあるはずがない。「セイの法則」など、現実には存在しないんです。

 ただ、物々交換の世界であれば、たしかにありうるかもしれない。物々交換経済では、何らかの財を購入するときには、必ず別の誰かが供給した何らかの財と交換されるからです。物々交換では、供給と需要は表裏一体の関係にあるわけです。

――なるほど……。

中野 ただし、そのような物々交換経済を想定すると、私たちが日々使っているリアルな貨幣は“蒸発”してしまいます。実際、セイは、貨幣は、単に生産物と生産物の交換における媒介物にすぎないとみなしていたんです。

――しかし、貨幣は貯蓄のためにも使われますよね?

◆科学的装いを凝らした「非現実的な学問」?◆

中野 そうそう、セイの貨幣観はおかしいんです。結局のところ、「セイの法則」は「物々交換幻想」に導かれた仮説にすぎないということです。

 ところが、生産物が常に生産物に交換され、供給が常にその需要を生み出すという「セイの法則」が成立するのであれば、需要と供給は常に均衡するので、過剰生産やそれによる不況や失業といった事態は、たしかに生じなくなります。そして、そこから、「自由市場に委ねれば需給は常に均衡する」という市場原理が導き出されるわけです。

――それが「ドグマ」になったわけですね?

中野 ええ。この「セイの法則」は、リカードやジョン・ステュアート・ミルといった古典派、そしてジェヴォンズ、メンガー、ワルラスといった新古典派にも継承されました。

 しかも、リカードやミルは、「セイの法則」を論敵による攻撃から守ろうと奮闘しましたが、新古典派はそれすらしなくなったとディラードは言っています。つまり、新古典派にとって、「セイの法則」は疑うべくもない「ドグマ」と化していたんです。

――なるほど。

中野 なかでも重要なのが、ワルラスです。彼は、「セイの法則」が成り立つことを前提として、経済全体の市場の需給が均衡することを数理的に体系づけた「一般均衡理論」を確立することで、新古典派経済学を主流派の地位へと押し上げた人物です。そして、主流派経済学は、今日もなお、ワルラスが確立した「一般均衡理論」から出発して、分析を精緻化させたり、拡張させたりしているんです。

 1980年代以降、主流派経済学の世界では、この「一般均衡理論」を基礎としたマクロ経済理論を構築しようとする試みが流行しました。経済全体を扱うマクロ経済学も、「一般均衡理論」で全部説明してしまおうというのです。

 この試みは、「マクロ経済学のミクロ的基礎づけ」と呼ばれています。これは、簡単に言えば、経済全体(マクロ)に生じるあらゆる現象を個人(ミクロ)の合理的行動から説明するという考え方です。世の中に起こることはすべて個人の合理的選択の結果だという想定になります。

――本当ですか? 僕自身、合理的選択ができているとは思えないですが……。

中野 でも、そう想定しているのです。それで、この「マクロ経済学のミクロ的基礎づけ」の挑戦から、RBCモデル(実物的景気循環モデル)、さらにはDSGEモデル(動学的確率的一般均衡モデル)という理論モデルが開発され、1990年代以降のマクロ経済学界を席巻することになりました。

 DSGEモデルは、小難しい数学を駆使した理論モデルで、いかにも科学的な装いをしています。しかし、問題なのは、この理論モデルの基礎にあるのが「一般均衡理論」だということです。

――「一般均衡理論」が、仮説にすぎない「セイの法則」を前提にしたものだから問題だと?

中野 そうです。ワルラスは、一般均衡理論を構築するにあたって、消費者と生産者の取引の量やタイミングはすべて正確に知られているという仮定を導入していました。取引における一切の「不確実性」がないものとしたんです。別の言い方をすれば、市場の一般均衡が実現するのは、デフォルトという事態が起き得ない世界においてなのだということです。

――だとすれば、あまりに仮想的な話ですね……。

◆主流派経済学の理論には「貨幣」が存在しない?◆

中野 ええ。しかし、私たちが日々行っているビジネス上の取引は、同時的に行われる物々交換とは異なり、現在と将来という異時点間で行われるのが普通です。例えば、製造業であれば、まず、製造機や原材料を手に入れ、社員を雇い入れる必要がありますが、完成した製品が実際に売れるのはずっと後のことです。そこには、「時間」が存在しているわけです。

 そして、現時点においてモノやサービスを受け取る人や企業には「負債」が発生しますが、将来は本質的に不確実ですから、「負債」には常にデフォルトの可能性があります。この不確実性を克服しなければ、経済活動が活発化することはありません。

 だからこそ、デフォルトの可能性がほとんどないものとして、すべての経済主体が信頼して受け入れる「特殊な負債」=「貨幣」が不可避的に求められるわけです。貨幣とは、イングランド銀行の季刊誌が強調するように、「信頼の欠如という問題を解決する社会制度」にほかならないんです。

 ところが、一般均衡理論が前提するように、売買において不確実性がなく、デフォルトの可能性がないのであれば、「信頼の欠如」という問題を克服する必要もなくなります。貨幣という社会制度そのものが不必要になるわけです。

――なるほど。

中野 それに、先ほど、あなたが言ったように、人々は、将来に何が起こるか分からないという「不確実性」に備えて貨幣を貯蓄するのですが、もし将来の「不確実性」がないのならば、貨幣を貯蓄しなければならない理由もなくなります。貨幣の機能の一つに価値貯蔵手段があることは、どの経済学の教科書にも書いてあることですが、「不確実性」を想定しない主流派経済学の一般均衡理論では、貨幣がなぜ価値貯蔵手段になるのかが説明できないんです。

――そうなんですね……。

中野 というか、主流派経済学は、分析手法を数学化することで、数学的分析こそが厳密な科学であるという通俗的な科学観に強く訴えかけたことによって、社会科学の中でも特に大きな影響力をもつようになったわけですが、この「数学化」こそが問題の本質とも言えるんです。
 
 なぜなら、“いつ何が起こるかわからない”という「不確実性」を織り込もとうすると、数学的理論を構築することができないからです。発生可能性を確率論的に示すことができる「リスク」を計算式に導入することはできますが、確率論的に示すことができない「不確実性」を計算式に導入することは不可能です。だから、彼らは「不確実性」を排除するほかなかったわけです。

 しかし、「不確実性」を排除するということは、貨幣の存在意義を排除することです。ワルラスが一般均衡理論において「不確実性」を消去したとき、そこから貨幣も蒸発したんです。これは、ワルラス系の一般均衡理論に関する中心的な理論家のひとりで、2013年に亡くなった経済学者であるフランク・H・ハーンですら、認めていることなんです。

――「数学への偏執狂ぶりは、科学っぽく見せるにはお手軽な方法だが、それをいいことに、私たちの住む世界が投げかけるはるかに複雑な問題には答えずにすませているのだ。」というピケティの言葉を思い出します。

◆「事実に無関心」な経済学者が政策形成に影響力?◆

中野 ピケティの言うとおりですよ。リーマン・ショック後の2008年11月に、イギリス女王エリザベス二世が、権威ある経済学者たちに対して、「なぜ誰も危機が来ることをわからなかったのでしょうか」と問いただしたときに、みな押し黙ったままだったそうですからね。

 でも、主流派経済学が「危機」を予測できなかったのは、むしろ当然のことですよ。主流派経済学の理論モデルは、信用貨幣を想定していないのだから、当然、信用創造を行う銀行制度も想定していません。銀行の存在がきちんと想定されていない理論モデルが、金融危機を予想できるわけがないじゃないですか。

 もっと言えば、そのような非現実的な経済理論が世界中の経済政策に影響を及ぼしていたことこそが、金融危機を引き起こしたとすら言えるでしょう。そのことを指して、クルーグマンらは、主流派経済学の理論モデルを「有害無益」と批判したんです。

 そして、ポール・ローマーが、過去30年間で経済学が退歩したと述べた際に念頭にあったのも、DSGEモデルに代表される「マクロ経済学のミクロ的基礎づけ」の非現実性だったのです。

 要するに、主流派の経済学者たちは、アダム・スミス以来、200年以上にもわたって、貨幣についての正確な理解を欠いたまま、物々交換経済の幻想を前提に、精緻を極めた理論体系を組み上げてきたということです。そして、いまや主流派経済学のなかからも、それに対する強い批判が生まれつつあるんです。

――私も以前、ある理論経済学者が「実際の日本経済について講義してくれと言われて困ったことがある」と書いているのを読んで、驚いたことがあります。

中野 その経済学者は、ずいぶん正直な方ですね(笑)。だけど、現実を説明できない経済学が現実の経済政策に強い影響力をもっているのは、恐ろしいことですよ。

――中野さんも、主流派経済学についてはかなり厳しい指摘をなさっていますね?

中野 正直に言って、耐え難いものがありますね。経済政策によって、国民の生活は大きく左右されます。主流派経済学者たちが「知的遊戯」を楽しむのは自由ですが、私たちはもっとまじめに暮らしています。生活が苦しくなったり、路頭に迷ったり、子どもの養育費で何かをあきらめざるを得ない家庭がいっぱいあるんですよ? そんな状況を放置して、「知的遊戯」をしているとすれば、許し難いことですよ。